社交不安障害で働く

社交不安障害を抱えながら働くことについて

生きる

生きることに意味は無い。
自分の意志で生まれてきたわけではなく、自分の意志とは無関係に生まれ、今地球上に存在している。体は勝手に呼吸をし生き続けている。

だから、生きることそのものの意味を問うてみても、自分の中に答えは無いのではないか。

生きている意味が無いと思うのは、生きていることそのものを指しているのではなく、生きるプラスαを人生に求め、その+αを感じられないからなのではないか。

ただ生きているだけの、プラスαがない人生。むしろマイナスが積み重なっていく人生。人間関係に悩み、やりたくない仕事をやらされ、受験勉強を強制され、雨に打たれ、病気になり、怪我もする。親しい人の別れ、孤独感、寂寥感。

こんな人生続ける意味はあるのか。死んだほうが楽じゃないかと。

ただ、死にたいという心とは裏腹に体は生き続ける。どんなに死にたいと願ってもその思いだけで死ねる訳ではない。

なんで自殺はいけないのか?
自殺は自分を殺し、自分の意識を消滅させることだ。

意識や認識の消滅という観点から言うと、苦しさから逃れる方法としてはもうひとつ考えられる。自分が死ぬのではなく、この狂おしい世界を消滅させる。もしくは自分とともに世界を消滅させる。この世界から逃れるためには、自分自身ではなく、自分が認識している対象としての世界を消滅させるということが考えうると思う。
おそらく世界の核爆弾を全部集めて地球に落としたらそれも可能だ。

そもそも自分が消滅したら世界が同時に消滅するのかもしれない。最近の量子力学の常識では、観察によりその対象がはじめて存在する、ということが言われている。

つまるところ、自殺は自分だけでなく他者の存在の否定にもなりうるのではないかと思う。
だから、自殺は絶対にしてはいけないとされているのではないか。

とは言っても自分の思考を変えるのは難しい。他者のことを考える余裕なんて無い。

アウシュビッツに収容された経験を書いたヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」。
この中に、以下のような意味の文章があった。

人生に何を期待するのかではなく、人生から何を期待されているのか。

フランクルは収容所での悲惨な経験を経て、このような心境に至ったと言う。

人生は期待通りには進まない。期待すればするほど失望や悲しみ、怒りが増えていく。

人生から何を期待されているか。
これはいい大学に入るとか、会社で出世するとか、そういう次元の話ではない。それは、人生から期待されているのではなく他の誰かから期待されていることだ。

人生から期待されていることは、自分も自然の一部としてあるがままを受け入れながら生きることではないだろうか。いずれは灰になり、地球の一部になるのだ。人間は動物であり、自然そのものなのだ。このことをもう一度見つめ直す必要があるのではないか。

逆説的に言うと、人生からは大したことは期待されていないのではないか。だから、もっと気楽に気ままに生きてもいいのではないか。
このように思う。

あるがまま、気のまま、自分らしく。社会や世間はそれを許さないかもしれない。なぜなら、彼ら、彼女らの多くは自分の気持ちを押し殺して生きているからだ。お前だけあるがままに生きるなんて許さないと言うかもしれない。

しかし、自分の身や心を殺すくらいなら、一度、人生から期待されていることなどほとんど無いのだと思い定め、生きていきたい。このように考えると不思議と力が沸き上がってくるのを感じる。

もう何かを期待するのはやめて、誰かの期待に応えるのもやめて、自然の一部としての自分の人生を静かに見つめていきたい。